「君にとってのロックとは何だね?」
私は、あくまで趣味ではあるが、音楽をやっている身であって、それも、世間一般でいうところの「ロック」をやっている。
音楽をやっている、というのは非常に曖昧な言い方なので、もっと具体的にいうと、ギターを弾き、作詞作曲をし、アレンジをし、宅録をするのである。リーダーバンドもあって、当然オリジナル曲だ。広く万人に受け入れられるタイプの曲ではないけれど。
ところで、今を去ること、そうだな、もうかれこれ20年近く前になるか、当時知り合いがやっていたロック居酒屋にいつものように入ると、私が崇拝するあるミュージシャンがそこにいた。彼は結構酔っていたし、私も人に話しかけるのが苦手なタイプなので、ちょっと挨拶して一人で飲んでいた。
すると、彼はいきなり私に、「君にとってのロックとは何だね?」と問いかけてきた。
そこで何と答えたかは思い出せないが、大した返答はできなかったことは間違いない。
彼は(確か)そのまま酔いつぶれてしまい、私は適当に飲んで引き上げたと思った。
その問は、忘れていたり、時々思い出したりしていたのたが、それから数年以上経ったあるとき、ふと、思いついた。
「ロックとは歪である」
この場合、「歪」は、音のみならず、否、音よりもむしろ「人」の歪を指す。
ロックとは、人の心の中の歪が外側に滲みでたものではないかと。
この場合、歪は、いろいろある。コンプレックスでもいいし、暴力的な性向でもいいし、変態的なものでもいい。いわゆる平均的なものから突出した、またはその逆の性質。それらが自分を表現するものとして、外界に現れたものが「ロック」ではないかと思うのだ。
「歪(ひずみ)」は「いびつ」といってもいい。「いびつ」は漢字で書くと「歪」なのだそうだ。
私が現在注力してやっているユニットのVoの女性は、とても個性的なメロディと歌詞を創り、他にも色々な才能に恵まれた人物なのだが、彼女は「いびつさ」の塊だ。
どこがどう「いびつ」なのかは、挙げればきりがないし、本人の名誉のためにも書かないでおくが、彼女の「いびつさ」が特異なメロディや歌詞の種になっていることは、まず間違いない。本人がそれを意識しているかどうかは別として。
この「いびつさ」がロックなのだし、さらにいうと、全ての芸術作品は、この人の「いびつさ」から産み出されるのではないかと思う。ただし、逆は真ではないし、「いびつさ」には技術、そして意志が伴わないと、作品として完成されたものはできないだろう。
この「いびつさ」が私にとってのロックなのだ。
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